インドにまったく関係ない話ですが、今日8月16日は4年前に亡くなった父の誕生日。
昨日の終戦記念日にちなんで、父が話してくれた戦争の話を書いてみます。
大正14年に熊本の米問屋の末息子として生まれた父。
私にとってはとってもよい父でした。
同時にとっても不思議な人でした。
朝起きて富士山に向かって必ず一礼していた父 (そう、在所の窓からは富士山が見えて
いました)。
TVで朝日が出ると、やはり姿勢を整え、目をつむり、両手を膝の上にぴんと伸ばし、
一礼。
反射的にそんなことをする父でした。
そんな父が学徒動員で満州に行ったのが昭和20年。1945年の2月のこと。
1月21日、いつものごとく学校へ行き、マレー語を勉強していた父(なぜマレー語
なのかは不明)。その間に、実家に赤紙が届いたようです。
同年2月11日の建国記念日に父を含む300人が学徒動員で満州へと送られたわけです。
2月16日に満州蜜山に着き、そこから3時間ほどをかけ、最極端の国境まで山の中
を雪中行軍したそうです。
2月の満州は液体すべてが凍り付くほど寒かったとのこと。
そこで3ヶ月間、幹部候補生の試験を受けるために教育を受け、同年6月頃、
平安鎮の部隊に異動。杏やすずらんが印象深かった、と話してくれました。
7月頃、幹部候補生に合格。その後すぐに、4日間歩行し、八面通に移動。
その駅から山に向けて6時間ほど歩き、山の中で陣地工作を開始。
夜中には狼が吠え、ロシアの偵察機が飛びかっていたとのこと。
7月後半に、歩行して部隊を半裁河に移動。
部隊編成で、ロシアとの国境2キロまで前進。
そこには宿舎が設けられていて、兵士たちが寝泊まりしていました。
夜は交代で見張りを行っていたそうです。
そして、終戦間際の8月9日午前2時58分。
まだ辺りは暗い3時からの見張り交代のため、宿舎の戸を開けた父。
目の前に巨体! 「ズドーン」! その場に倒れこむ。
動転しながらも、ロシア兵が宿舎に寝ている日本兵に向けて鉄砲を打ちまくるのを目のあたりにした父。必死だったそうです。這いながら部屋中央にあったペーチカの後方へと移動。
起きる前までとなりに寝ていた城尾君はこのとき亡くなってしまったそうです。
浪花節が非常にうまく、夜も一緒に風呂を共にし、歌ってくれたと。
当時26歳ほどだった轟 (トドロキ) 班長は亡くなったと思っていたが、後に戦友から無事であったことを知り、戦後45年経った頃に名古屋の時計台の下で再会したとのこと。
駅前の回転レストランで 4 時間ほど食事をしながら話しこんだそうです。
「よく生きていたね」と。
父の前に見張りをしていた方は亡くなり、
父は「もし自分の番が後で寝ていたら、死んでいた」と話していました。
父が終戦の知らせを聞いたのは、まだ朦朧としていた南新京での列車の中でのことだったそうです。
その後も満州付近でいろいろあった父。
故郷へ戻ったのは1946年6月のことでした。
89歳で4年前に没した父。
毎晩1合の焼酎を少しずつ晩酌しながら戦争の話をしていました。
戦歌を聴くと涙を流していた父。もう少し話を聞きたかった。
父に乾杯! おとーさん、お誕生日おめでとう!
昨日の終戦記念日にちなんで、父が話してくれた戦争の話を書いてみます。
大正14年に熊本の米問屋の末息子として生まれた父。
多分昭和7年頃の写真 |
私にとってはとってもよい父でした。
同時にとっても不思議な人でした。
朝起きて富士山に向かって必ず一礼していた父 (そう、在所の窓からは富士山が見えて
いました)。
TVで朝日が出ると、やはり姿勢を整え、目をつむり、両手を膝の上にぴんと伸ばし、
一礼。
反射的にそんなことをする父でした。
そんな父が学徒動員で満州に行ったのが昭和20年。1945年の2月のこと。
1月21日、いつものごとく学校へ行き、マレー語を勉強していた父(なぜマレー語
なのかは不明)。その間に、実家に赤紙が届いたようです。
同年2月11日の建国記念日に父を含む300人が学徒動員で満州へと送られたわけです。
2月16日に満州蜜山に着き、そこから3時間ほどをかけ、最極端の国境まで山の中
を雪中行軍したそうです。
2月の満州は液体すべてが凍り付くほど寒かったとのこと。
そこで3ヶ月間、幹部候補生の試験を受けるために教育を受け、同年6月頃、
平安鎮の部隊に異動。杏やすずらんが印象深かった、と話してくれました。
7月頃、幹部候補生に合格。その後すぐに、4日間歩行し、八面通に移動。
その駅から山に向けて6時間ほど歩き、山の中で陣地工作を開始。
夜中には狼が吠え、ロシアの偵察機が飛びかっていたとのこと。
7月後半に、歩行して部隊を半裁河に移動。
部隊編成で、ロシアとの国境2キロまで前進。
そこには宿舎が設けられていて、兵士たちが寝泊まりしていました。
夜は交代で見張りを行っていたそうです。
そして、終戦間際の8月9日午前2時58分。
まだ辺りは暗い3時からの見張り交代のため、宿舎の戸を開けた父。
目の前に巨体! 「ズドーン」! その場に倒れこむ。
動転しながらも、ロシア兵が宿舎に寝ている日本兵に向けて鉄砲を打ちまくるのを目のあたりにした父。必死だったそうです。這いながら部屋中央にあったペーチカの後方へと移動。
起きる前までとなりに寝ていた城尾君はこのとき亡くなってしまったそうです。
浪花節が非常にうまく、夜も一緒に風呂を共にし、歌ってくれたと。
当時26歳ほどだった轟 (トドロキ) 班長は亡くなったと思っていたが、後に戦友から無事であったことを知り、戦後45年経った頃に名古屋の時計台の下で再会したとのこと。
駅前の回転レストランで 4 時間ほど食事をしながら話しこんだそうです。
「よく生きていたね」と。
父の前に見張りをしていた方は亡くなり、
父は「もし自分の番が後で寝ていたら、死んでいた」と話していました。
父が終戦の知らせを聞いたのは、まだ朦朧としていた南新京での列車の中でのことだったそうです。
その後も満州付近でいろいろあった父。
故郷へ戻ったのは1946年6月のことでした。
89歳で4年前に没した父。
毎晩1合の焼酎を少しずつ晩酌しながら戦争の話をしていました。
戦歌を聴くと涙を流していた父。もう少し話を聞きたかった。
父に乾杯! おとーさん、お誕生日おめでとう!
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